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みどり動物病院 コラム

院長のひとりごと 【ゆるぎない信念を持った神ではない】

 

安楽死の処置をすべきか/すべきでないか、総論反対/各論賛成のようなことかもしれない。

「 安楽死について先生の考えはどうか 」 と一般の方から聞かれれば、できれば安楽死はしたくないと躊躇せずに言うであろう。

しかし、もし目の前に手を加える手段もなくただ単に苦しんでいる動物がいるとした場合、あるいは飼育動物のために苦しんでいる飼主がいたら、目の前にある精神的あるいは肉体的な苦痛から解放するために安楽死もひとつの手段として考えることがいけないことだとは思わない。

 

私個人は状況によっては安楽死を容認する立場でいる。

動物に対する飼主の考え方も加味して決定しなくてはならないこともでてくる。

  獣医師として動物のことだけを考えて選択すべきか?

  動物を飼育している飼主の事情をも考慮して選択すべきなのか?

毎回とても迷うし、出した結論に正直自信がない時もある。

  本当にそれしかないのか?

  獣医師としてあるいは動物愛好家としてやり残した努力はないのか?

最後の最後まで迷う。

 

飼主が安楽死処置をしてほしいという言葉を口に出すまでには、自己嫌悪や罪悪感や色々な葛藤があったと思うと簡単に一言で 「 私は安楽死はしません 」 とは言えない。

飼主は動物に対する愛情の延長で安楽死の行為を捉えているのに対し、獣医師は個人的な職業的指針あるいいは倫理観で決めていいものなのか、道義的にどんなものなのか私個人としては簡単に結論が出せない問題である。

 

 ✓飼主が高齢で身寄りも無く、ご自身が施設に入らなくてはならなくなり、誰も引き取り手がなかった

  飼主以外になついていない年老いた目の見えない秋田犬。

 ✓飼主が長期入院を余儀なくされ、加療ができなくなった慢性腎機能障害のある高齢の猫。

 ✓急な転勤で動物飼育禁止のアパートに引っ越さなくてはならなくなった家族が飼っていた、

  若くて元気はあるが咬み癖があり家族以外にはなつかないドーベルマン。

 ✓骨肉腫の転移があり、夜も眠れずに絶えず激しい痛みに苦しめられているプードル。

 

どれもこれも飼主家族は安楽死を選択する前に、いったいどのくらいの時間悩んだのであろう。

一番身近で暮らし、一番愛情を感じていた飼主が安易な気持ちで選択できる問題ではない。

その気持ちを汲んで、なおかつ安楽死を断る説得のある言葉を私は持ち合わせていない。

 

目の前にいる動物の命を途絶えさせる権利を、誰も持ち合わせてはいないだろう。

しかし現実的な問題は待ったなしで容赦なく降りかかってくる。

 

飼主が言った、「私は自分が選択した結論を後悔するかもしれない。しかし今現在他になすすべが無い。最後は自分が信じられる獣医師にこの行為を行ってもらいたい。」という言葉が少しだけ私の心を軽くした。

 

 

生ある物が、全ての活動を停止したただの静物に変わる瞬間はなんとも形容しがたい。

全てが過去になる瞬間。

命の扉を閉じる瞬間。

 

私は信念を持った神ではない。

2018.11.10
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